『ジパング』の最終回を読みました。
色々と「なんじゃコリャ」的な嘆きの声は聞こえてきてたので、どんなモンじゃろとドキワクガクブルしながら読んだのだけど、すでに耐ショック体制を完璧に敷いてから読んだせいか、「あ、なんだ。それほど酷くないじゃん」という感想ですた。
…もう、ガックリしてしまうほどにはこの作品に愛が残ってないからかも知れないけど;
あと、終わり方として、自分の好きなパターンで締められてたのが好印象になったのかも。
終わりよければ全てよし、じゃなけれど。
ああいう、終わりと始まりがぐるりと環を描いて物語が帰結するのが好きなんですな。
あと、主人公だけに与えられてしまった、「世界」への一抹の感傷。
それだけでもう、かなり途中のストレスが割り引かれて、作品の総合評価が決められてしまうというか(笑)
もうね、終盤の方のグダグダっぷりは、本当に読んでてストレスが溜まって溜まって…。
あんなに読んでてムカついてくる主人公の言動や話の展開も、そうないだろうと。
(『特天』もかなりストレスが溜まったけど、アレは主人公が救いだったからなー)
おまけに、そのムカつきから来るストレスに対して、カタルシスが最後まで全然来ないものだから、あの終わり方に「なんじゃコリャ」と言いたくなる気持ちもスゴくよく解るわけです。
また、途中までは面白かっただけに余計ね……恨み節が出てくるというか。
担当編集やブレーンスタッフが変わっちゃったのかなぁ?
で、最終回に話を戻すと、上にも書いたように、個人的には嫌いじゃない…というか、むしろ好みの方だったり。
ただし、あくまで最終回単体での評価だけれども。
あんだけの事をしでかしまくった角松のその後の人生がアレかよ!?っていう途中の展開からくる不満はともかく、ただ独りあの世界に遺された(全てを知っている)角松だけが持ち得る寂しさとか、あの世界で生まれた菊池たちの「誰か一人足りないような気がする」っていう平行世界をまたいでも繋がっていた三羽烏の絆の強さとか、あーこの世界ではもうみらい乗員は要らん苦労しないで済むんだなという安堵感とか、角松はみらいを見送って安心して死んだのかなとか、そういう、もー、個人的にはラストだけなら(途中の不満に目を瞑れば)、ピンポイント的にキュンキュンしまくる仕様で出来上がっておりました。
今まで、かわぐちかいじは浦沢直樹と同じで風呂敷を広げるのは巧いがオチが弱い作家だとばかり思っていたけど、微妙に違って、オチそのものが弱いわけではなくオチに至るまでを描くのが弱い漫画家だったんだな…と考えを改めましたです。
弱いって言うか、なんかアレだ…いつも強引すぎる感じ。>バッテリーとか、イーグルとか
最終回つーか戦後編に不満があるとすれば、やっぱりかいじおじちゃんの中にある、団塊世代的なものへかな〜。
講和後の日本への評価がちょっと引っかかったので。
あの世代って、リセット願望が強いんだろうか?
物心ついたときに日本がリセットされたことによるトラウマとか?
団塊ジュニア世代っつーか、戦前文化スキーとしては、焦土にならなかった日本なら今ほど日本人が卑屈に育たなかっただろうから、そっちの方が良かったんじゃないの?と思ってしまってなぁ…。
まぁ、無いものねだりの妄想だけども。
確かに、戦後の鬼のようなハッテンぶりは、敗戦あってこそだったろうし。
けど、このままの日本の未来も見たいんだよぅ。(;つд`)↓
テラモダン。